DIARY

2021/11/20 左利き

「あ、左利きなんですね!」 自分含め、左利きの人はこの会話イベントに定期的に突入させられる。 初対面で気づかれるパターンもあれば、長い付き合いの中で「あれ、左利きやったん!」と驚かれるパターンもある。いずれにしても、もうその話聞かんでくれ、と思う。会話の流れでサラッと聞かれる位は何の支障もないけれど、大きめのリアクションでわざわざ一話題として取り上げられるとキツイ。

会話というのは、大抵2手、3手先くらいはある程度予想しているものだと思う。自分の質問に対して相手がこういうことを言うだろうから、次は何を聞こうだとか。まあそこまで意識的に考えていなくても、「会話を続けること」は念頭に置いているだろう。「あ、左利きなんですね!」を1手目に出してくる人は、3手目に何を想定しているんだ。こちら側は2手目に「そうなんですよー。」くらいしか答えられない。この話題、3手目まできちんと会話が続いた記憶がない。いつも、こちらが会話を終わらせたみたいになる。気まずい。

自分は左利きであることに特別意識がない。生まれもった性質だから。他の左利きの人もおそらく同じだと思う。右利きの人が右利きであることに特別意識を持たないのと全く同じ。だから、わざわざ利き手を話題の一つとして取り上げられても困る。そもそも、左利きなんてもうそんなに珍しい存在でもないと思う。国によって差があるらしいが、日本人は大体10%くらいが左利きらしい。10人に1人。いちいち触れるような割合ではない。 まあこの投げかけに敢えて迎合すれば、ありがちな「左利きあるある」みたいなもので無理やり会話を継続させることはできるかもしれない。しかし、そんな不毛な会話をするくらいなら、多少気まずくなろうが早々に会話を終了させたい気持ちが勝つ。こういう所が良くないんだろうな。 聞いてくる人は小さなきっかけから会話の糸口を見つけてコミュニケーションをとろうとしてくれているのだから、有難いはず。でも、話題としてはかなり面白くないので聞かないで欲しいと強く思う。

どうしても左利きにまつわる面白エピソードが3手目にある人だけ、「あ、左利きなんですね!」を使っていいルールにしたい。まあ聞かれる側も善処しないといけないけれど。これをお読みの左利きの方はオススメの2手目があれば教えてください。

2021/10/18 所作の差

先日、4~5年会っていなかった友人と久しぶりにご飯を食べた。その友人とは高校生の時に塾が同じだっただけの繋がりなのだが、ここまで何とか途切れることなく交友関係が続いている。数年に1回、向こうからふらっと連絡が来て、それに応じる形で地元でご飯を食べる。

彼は割と自分と正反対というか、自分にない要素だけを集めたような人間だ。女好きで、人と話すことに長けていて、物怖じすることがなくて、酒が好きで、酔うと喧嘩っ早くて、理数系にめっぽう強い。丁度、全部自分にない。まるで裏返しだ、と思う。こんなにも正反対でありながらも、別に反発し合うことはない。むしろ、真逆であるからこそお互い己に無い部分に対して敬意を表しているような空気感がある。言葉にはしないけれど、確かにそんな空気を感じる。まぁなければわざわざお互い会う約束はしない。

自分にはない彼の要素の中でも特筆すべきは、コミュニケーション能力だろう。相手の話を聴く力、というよりは場を支配する力が上手い気がする。突飛な行動をとっても違和感を与えさせにくい、謎の説得力。色々な人を惹きつける魅力が確かにあるなと話をしていて感じていた。

彼をぼんやり観察していて分かったことがある。所作の手数が多い。例えば、居酒屋の店員さんに何かを頼む際に、常人より多いコミュニケーションが入る。微妙なジェスチャーだったり、確認の質問だったり、気遣いの言葉だったり。自然な流れで会話のラリーが続いている。うーむ。流石。本当に自分と真逆だ。勿論、自分も店員さんが気持ちよく対応できるような配慮は心掛けているが、やっぱり何かが決定的に違う。歴然とした手数の差がある。その手数の多さが違和感に繋がりにくいのも不思議な魅力だ。仮に自分が彼と同じ所作を真似したところで、違和感しかないだろう。

よくこういったコミュニケーション上手な人の話術に目を向けてしまうのは、自分自身のコミュニケーション能力の低さに辟易しているから。良いコミュニケーションの模範例を前にすると目で追わずにはいられない。だがそもそもの生き方が全く違うので彼のコミュニケーション技術を「真似しよう」とは思えない。こういうのは輸血みたいなもので、型の違うものを無理やり取り入れようとした所で適合しないだろう。何でもかんでも糧にしようとするより、ひとまず違いを楽しむ位がちょうど良いのだと思う。

彼とはまたいつか会おうとだけ言って別れた。移住も検討しつつ海外に行くという話をしていたので、もしかしたら長らく会えないかもしれない。まあどこへ行っても達者で過ごしそうな奴だから何の心配もないけれど、次会う日までお元気で。

2021/10/11 夕闇徘徊

生活の変化が自身の出不精を増長させる。これは良くないぜと思い、最近は意識的に外出するようにしている。外出と言っても、家の近所をテキトーにぷらぷらと散策する程度なのだが、丁度良い気分転換にはなる。日中はまだ暑いので夕方~夜に出かけるのが基本様式。家の近所でも存外知らない道が多く、色々な発見があって面白い。特に日暮れ前後は、その時間にしかお目にかかれないような景色も沢山あって、自然の素晴らしさを痛いくらいに実感する。

この夕闇徘徊(と今名付けた)では、ほぼ必ず訪れる橋がある。そこそこ大きい運河にかかっている橋で、近くの工場地帯が放っている光が綺麗な、隠れ写真映えスポット。車は割と通るけれど歩行者は滅多にいないので、外にいながらもちょっとした「自分だけの時間」を味わうことができる。そんな憩いの場であるにも関わらず、訪れると毎回ふと「この橋から飛び降りたら」なんて物騒なことを連想してしまう。まるでゲームの選択画面のように

→・飛び込む
・飛び込まない

という表示が脳裏に浮かぶ。本気で「飛び込む」を選ぶ日が来るのかどうかは果たして不明だが、今のところは「飛び込まない」を選び続けている。川を眺め、ゲームの選択メニューを想起し、「飛び込まない」を選ぶ。この一連の脳内連想儀式は別に希死念慮に因るものではないし、病んでいるわけでもない。つもり。じゃあ何なんだと問われれば、俗っぽい言い方になるが「生の実感」を確認している行為なのかもしれない。「ああ、今日も自分はちゃんと飛び込まないを選んだぞ」を確認するような。だからむしろ、希死念慮からは全く逆位置にある。「なぜ飛びこまないを選んだのか?」を考えることで自分にとっての「生きる」がより明確になる気がする。気がするだけ。

別に、生き死にについて考えようが考えまいが人生は続く。そんなに考え過ぎない方が良いと唱える人もいるだろう。ただ個人的には、意識的に考えないと流れていくままに歳を重ねるような気がして落ち着かない。生きることにも死んでいくことにも客観的な意味なんてないのだろうが、何のために生きるのか(死ぬのか)、という自分なりの定義はあってもいいのではないかと思う。
「なぜ飛び込まないを選んだのか?」の自分なりの回答は、考えたことを表現する為にまだ生きたいから。描きたい絵が、書きたい言葉がまだ残っているから。自分にとって、生死の分岐点にわざわざ立って「生きる」を選択する儀式は、それを再認識する行為なのだ、きっと。今のところは。

・飛び込む
→・飛び込まない

2021/10/04 恋のたらこパスタ

本屋によく行く。見るコーナーはある程度決まっているが、新しい興味の発掘のために、全然知らないコーナーを覗くこともある。その中でも雑誌コーナーは、多種多様なジャンルが割と固まったスペースに集められているので、手軽に多くの情報に触れやすくて好きだ。特に雑誌は、お客の興味を惹かせるために、インパクトのある言葉や写真を表紙に載せていることが多く、面白い。 この間、雑誌コーナーを眺めていると、ある雑誌の表紙の言葉が目に留まった。

「恋愛運アップには、たらこパスタ」

占いの見出しだろう。でも理由付けが全く分からなかった。一体どんな理屈でそんなことを書いているのか気になったので、該当ページを見てみた。チラッと見ただけでうろ覚えだが、パスタは長いから縁起がいいとか、たらこは赤いから恋愛運にいい、みたいな内容だった。全く納得いかなかったことだけは、はっきり覚えている。こういう縁起物に真剣に突っ込むことは野暮な行為であることは重々承知の上だが、たらこパスタは血糖値を上げてくれるだけで恋愛運は上げてくれないだろうに等と思ってしまった。

こうした占いや縁起物は、長い間娯楽として人間に親しまれている辺り、大衆を惹き付ける魅力があるのだと思う。そしてそれは楽しむも訝しむも各人の自由で、好きなように解釈するのが良いと思う。自分自身、占いで例えば今日の運勢だとかの良し悪しを判断されれば、人並みには影響を受ける。ただ、今回の文言に限らず、「〇〇で運がアップする」という言葉は少し気にかかる。そもそも「運」は自力で上げ下げできないからこそ「運」なのではないのか、と思うからだ。辞書で確認しても、

人の身の上にめぐりくる幸・不幸を支配する、人間の意志を超越したはたらき。天命。運命。

とある。「運」とは、「人間の意志を超越したはたらき」なのだ。そんな代物を、たらこパスタで操作しようなんて、はたしてそんな無茶が通るのだろうか。恐るべし、たらこパスタ。

2021/09/27 好きなアーティストを教えて。

「好きなアーティスト」という話題が難しい。 アーティストに疎いからではなく、逆に色々候補がありすぎて難しい。ただ、人と話す上では、まあまあ避けては通れない話題ではある。

そもそも、そういう話題における「好き」の定義は何なのだろう。他人に紹介する際は、ある程度の客観的な根拠を持って「好き」を表明しないといけないのかしら、とか思ってしまう。 だから、好きな曲はいっぱいあるけど、いや、別にライブに行った訳でもないし、CDやグッズを全部買った訳では無いし、そのアーティストの活動にそこまで貢献しているとは言えないな、とか思っちゃって、そんな状況で、胸張って「このアーティストが好きで~」とか他人に言えないなとか思っちゃったり。
サブスク、YouTubeが全盛の時代で、特にそういう「直接的に活動に貢献している」感覚は薄まっているので、より難しくなってる。

また別の問題として、あくまで「コミュニケーション」であることも自分の中で難しくさせている。要は、「私はこういうアーティストが好きです」と言うことは、自身の内面の一部を相手に伝達する行為で、相手はその返答によって例えば「センスがある/ない」「自分と似ている/似ていない」だとかを判断する。 ある程度不足なく伝えようと思うと、数ある自分の好きなアーティストの中でどれを言えばいいんだろう。その組み合わせがまだ定まってない。 大抵の場合はindigo la Endかクリープハイプか米津玄師、と言うことが多い。でも本当は、色々条件を狭めた上でめちゃくちゃ雑多に語りたい。

最近は、自分も人から教えてもらって知った口だけれど、Momを布教している。会う人全員に「Momいいよ」って言ってる気がする。みんなMom聴こうね。

いつか、好きなアーティスト名と好きな曲名を全部載せたWebページを作ってやろうかとか思う。今後「好きなアーティスト」を聞かれたらそのページのURLを送り付けるだけでOKなやつ。感じ悪いかな、そんなことしたら。

2021/09/20 笑顔が素敵

笑うと眉毛が八の字に下がる人が素敵だと思った。 その笑顔が魅力的に映った1番の要因は、自分はそんな顔で笑ったことがないから。気の抜けた様子にほっこりさせられた、みたいな単純な要因も少なからず含まれるけれど、それが決定的に「自分に無いもの」だったことが眩しかった。

人の話を聞いてリアクションを取る事が下手な自覚がある。めちゃくちゃある。特に「笑う」が出来ない。実際に自分の笑う顔をリアルタイムで見る機会はまぁないが、顔の筋肉をぎこちなく動かしている感じはよく分かる。「面白くないから笑えない」みたいな冷たい心境というよりは、脳内で先行して考えていることが邪魔をして、自然なリアクションが取れない。 特に初対面の場合は顕著に困る。初対面、リアクションなんて多少オーバーなくらいが丁度いいはずなことは分かっているけれど、態度に出ない。心中では色々な感想が巡っていても、それが顔に出ない。表情筋が職務を放棄している。がはは。

笑うと眉毛が八の字に下がる人は、他人の話が、どんな風に聞こえているのだろう。少なくとも自分みたいに頭の中でごにょごにょ余計なことを考えてる訳ではなさそうな気はする。もしくは考えていてもそれを表に出さない技術に長けているのかもしれない。いずれにしても「屈託のない」という言葉がまさに相応しい、そんな八の字。今度会ったら教えてもらおうかな、眉毛の下げ方。

2021/09/13 吐いて吸う

ご飯を食べて、美味しいと思えることが減った。減ってしまった。味はしっかりと感じるけれど、素材と調味料・調理法の組み合わせを脳で判断しているに過ぎなくて、いまいち「美味しい」と感じるまでの「快」に結びつかない。なんじゃこれ。

心のバランスを整えて心地よく生きるには「吐く」と「吸う」が大切なのだと思う。「吐く」は、例えば、運動で汗をかく、歌を歌う、絵を描く、文章にする、泣く、人に話を聞いてもらう、とか。とにかく何か(汗、声、絵、文字、涙、言葉)を外に向かって出す行為。「吸う」は、食べる、寝る、人に励まされる、風呂に入る、とか。何かを取り込んだり、心身を休める行為が当てはまる。

これまでの経験から、人間は吐いた分しか吸うことはできないのだ、と解釈している。全く吐いていない状態、心身がモヤモヤで満たされている状態では、いくら吸った所で何も解決に至らない。 よく寝るとか、美味しいものを食べるだとか、一般的によく推奨される「吸う」タイプの休息は、吐いていない分にはいくら取ろうと十分な効果は発揮しないのだろう、と思う。

最近のご飯を食べても美味しく感じない、満たされない原因は多分これのせいなのだ。吐いていないから、吸えない。すごく単純な仕組みに悩まされていた。だから書きました、日記。文字に起こす、書く、「吐く」行為。これで少しは明日のご飯、美味しく感じるといいですね。