2021/10/11 夕闇徘徊

生活の変化が自身の出不精を増長させる。これは良くないぜと思い、最近は意識的に外出するようにしている。外出と言っても、家の近所をテキトーにぷらぷらと散策する程度なのだが、丁度良い気分転換にはなる。日中はまだ暑いので夕方~夜に出かけるのが基本様式。家の近所でも存外知らない道が多く、色々な発見があって面白い。特に日暮れ前後は、その時間にしかお目にかかれないような景色も沢山あって、自然の素晴らしさを痛いくらいに実感する。

この夕闇徘徊(と今名付けた)では、ほぼ必ず訪れる橋がある。そこそこ大きい運河にかかっている橋で、近くの工場地帯が放っている光が綺麗な、隠れ写真映えスポット。車は割と通るけれど歩行者は滅多にいないので、外にいながらもちょっとした「自分だけの時間」を味わうことができる。そんな憩いの場であるにも関わらず、訪れると毎回ふと「この橋から飛び降りたら」なんて物騒なことを連想してしまう。まるでゲームの選択画面のように

→・飛び込む
・飛び込まない

という表示が脳裏に浮かぶ。本気で「飛び込む」を選ぶ日が来るのかどうかは果たして不明だが、今のところは「飛び込まない」を選び続けている。川を眺め、ゲームの選択メニューを想起し、「飛び込まない」を選ぶ。この一連の脳内連想儀式は別に希死念慮に因るものではないし、病んでいるわけでもない。つもり。じゃあ何なんだと問われれば、俗っぽい言い方になるが「生の実感」を確認している行為なのかもしれない。「ああ、今日も自分はちゃんと飛び込まないを選んだぞ」を確認するような。だからむしろ、希死念慮からは全く逆位置にある。「なぜ飛びこまないを選んだのか?」を考えることで自分にとっての「生きる」がより明確になる気がする。気がするだけ。

別に、生き死にについて考えようが考えまいが人生は続く。そんなに考え過ぎない方が良いと唱える人もいるだろう。ただ個人的には、意識的に考えないと流れていくままに歳を重ねるような気がして落ち着かない。生きることにも死んでいくことにも客観的な意味なんてないのだろうが、何のために生きるのか(死ぬのか)、という自分なりの定義はあってもいいのではないかと思う。
「なぜ飛び込まないを選んだのか?」の自分なりの回答は、考えたことを表現する為にまだ生きたいから。描きたい絵が、書きたい言葉がまだ残っているから。自分にとって、生死の分岐点にわざわざ立って「生きる」を選択する儀式は、それを再認識する行為なのだ、きっと。今のところは。

・飛び込む
→・飛び込まない